UA-139114584-1
top of page

不登校カウンセリングブログその1188.いろいろ考えた結果、気づくこともあります―「どうして不登校に?」とお考えの方へ。

更新日:2022年10月21日


 生きていて、楽しいこと、嬉しいことばかりでしたら、人生は喜びで満ち溢れているのでしょう。しかし、そうでないことを、数十年生きてきた方々はご存知と思います。思わぬことが起きて、「どうして、こういうことが起きるのだろうか」と、考えている方もおられるでしょう。不登校に直面している方の中にも、「どうして不登校という状況にあるのだろうか」とお考えの方もおられるでしょう。どうして、そういう予想しなかったこと、どちらかというと楽しいことや嬉しいことではなく、そういうことから遠いことが起こるのでしょうか。


 不登校の状況は、直面してみたらわかりますように、本当に様々です。一般論化するのは不可能です。不登校という状況が、その当事者に与えた影響はさまざまであります。そのため、このブログで書くことが、まったく当てはまらないという方もおられると思います。


 ただ、何割かの人に当てはまりうることを申し上げるなら、不登校のように、「予想しなかったこと」が起きた場合、そのような「予想しなかったこと」によって気づくことがある、そのようなことでしか気づき得ないことがある、ということです。楽しいことや嬉しいことだけでは、気づき得ないことがある、ということです。


 楽しいことや嬉しいことは、確かに喜びに満ちていますが、そういうことが起きても、あまり考えることはありません。自分を見つめることはありません。一方、不登校のようなことが起きると、いろいろと考えます。自分を見つめます。おそらく、不登校の親御さんの何割かが、すでにいろいろと考えておられるでしょう。


「自分の子育てのどこかに問題がなかったのだろうか」

「子供との接し方に、何か工夫すべきことがなかったのだろうか」


 そのように考えている方もおられるでしょう。そのように考えることは、当人にとって嬉しいことではありません。望ましいことではありません。どちらかというと、落ち込ませるようなことです。


 そのように考えることのすべてが、事実であったとは申しません。不登校になったことのすべてが、子育てに問題があったから起きているわけでもありません。


 ただ、そのように自分を見つめることは、ものすごく大きなことであり、大事な視点でもあると思うのです。人間は、どちらかというと「自分は正しい」と考えたがる生き物です。「自分は間違っているかもしれない」と考えることは、部分的にも自分を否定することになります。そのため、そのように考えるのではなく、「自分は正しい」と考えてしまいます。


 それは勇気や正義を主張する力にもなりますが、そればかりになりますと、傲慢(ごうまん)な考え方や、独りよがりの、独善的な考え方になってしまいます。そのような考え方を持つと、足元をすくわれて失敗する危険性が高くなります。また、そこまでいかなくとも、自分を省みる視点がないので、成長する可能性を失うことにもなります。


 不登校のような状況によって、自分を見つめる視点が得られます。そのような視点が得られれば、「自分は正しい」という考え方に、一定のブレーキを加えてくれます。「本当に正しいのかな」と考えることで、自分の足りない部分が見えてきます。それは、間違いを犯すことを防ぎ、さらに成長する可能性を高めてくれます。


 不登校の状況を一定時間、通り越して、心がある程度安定している親御さんの中に、「不登校の経験があったから、いろいろなことに気づけた」と考えている方がおられるのは、ご自分を見つめる視点を持たれたからではないかと思うのです。


 私は、不登校のような状況が起こることを、肯定しているのではありません。全国19万人にもなる不登校の状況は、できるだけ起きないようにするべきだと考えています。ただ、起きてしまったことは、起きてしまったことです。起きてしまったのですから、そのことを嘆いたり、不幸だと思ったりするのではなく、そこに何か得られるものはないかと考えた方が、得だと思うのです。







 



 

Comments


bottom of page